『スーパーロボット マッハバロン』の主題歌は、オープニング・エンディングともに歌手・すぎうらよしひろ氏の歌唱によるものである。作詞は『スーパーロボット レッドバロン』はもとより、『月光仮面』を皮切りに数多くのテレビヒーロー作品を生み出した宣弘社の企画課出身にして、以後作詞家としてあまたのヒット曲を世に放ち、更に作家・映画監督としても活躍した阿久悠(あく ゆう)氏。作曲はグループサウンズの有名グループ、ブルー・コメッツ出身の井上忠夫氏(後年“井上大輔”に改名)といった、前述の『レッドバロン』を手がけ、そして当時の歌謡界で数多くのヒット曲を生んだ名コンビによって誕生した。
作詞作曲の両氏はすでに物故されており、当時の証言を伺うことは不可能であるが、その名曲を歌唱したすぎうらよしひろ氏から、『マッハバロン』を中心にこれまでの音楽活動も含めて、興味深いお話を伺うことと相成った。
−−まず、すぎうらさんの芸能界デビューのきっかけですが、実質、バンド“NORA(ノラ)”の結成でしょうか?

すぎうら)“NORA”の前に、TBSラジオ『ヤングタウンTOKYO』(1969〜1986年)っていう番組の“ヤングタウンシンガーズ”というアマチュアバンドにいたんです。筒美京平さんの曲と山上路夫さんの詩で「風船旅行」という作品がありまして、その曲のリードボーカルを僕が担当しています。当時としては僕らはアマチュアなんだけど、局の番組に出る形でやっていたので、周りに音楽関係者の方が一杯いらっしゃるという、彼らの目に留まりやすいポジションにいたということが、「バンド(NORA)をやってみないか?」というオファーに繋がるきっかけだったとも思うんですね。芸能界の外にいると、ああいう世界に入るのはとても難しくて、「どこにもそんなきっかけなんてないよね?」というような状態ですから。
当時、渋谷(宮益坂)に“青い森”というフォーク喫茶があって、そこで「まぁ、音楽諦めるなら、人前でちょっと歌えるような機会がもてたらいいなぁ」と思ったのが、実はきっかけです。そこに当時、日大芸術学部の男三人組のフォークグループがいて、彼らの中には後に“エレックレコード(※脚注)”の立ち上げメンバーとなる、小野寺明夫と三浦卓がいました。当時僕は(和製)フォークは歌ってなくて、サイモン&ガーファンクルとかホリーズが好きでした。そういうのを演奏(や)ったものですから、(和製)フォークの人からは「変わったフォークだね」っていう目で見られて。その後結構「面白い面白い」ということになってきて、「俺たち『ヤングタウンTOKYO』に出てるからさ、お前もそこで一緒にやろうよ」っていう話になりました。『ヤングタウンTOKYO』のバンドに入って。土曜日だったかな? 週一で1年半位やって。アマチュアでしたけど、リハーサルとかでスタジオを自由に使わせてくれるディレクターがいて、非常に恵まれた環境でした。専属コーチもいて、発声練習も生まれて初めてやりました(笑)。自分が音楽をやっている中では一番いい時代でしたね。
“ヤングタウンシンガーズ”の頃に、吉田拓郎さんが人気出て来て。高崎か群馬の拓郎さんのコンサートに出してもらったこともありましたね。大所帯だったけど、よく呼んでくれたなぁ(笑)。拓郎さんもTBSの『パックインミュージック』(1967〜1982年/吉田氏は1972年4月〜9月の時期に担当)をやってましたから、そのディレクター絡みだったかも知れないですけどね。とにかく僕らは素人だったけど、恵まれた環境にありました。曲を書くようになった時でも、のびのびと書かせてもらえた。“面白い作品”も結構あのころは書いてましたね。
1970年の暮れくらいに“ヤングタウンシンガーズ”を始めて、僕は自作曲も何曲かやらせてもらえました。1971年は『ヤングタウンTOKYO』にどっぷり浸かってて…。ところが1972年の春になると、メンバーが殆ど全とっかえくらいに辞めたんですよ。バックバンドも辞めちゃったし。みんな就職で、音楽をやめたメンバーもいた。それ以前はヴォーカルが沢山いて、並ぶと大変。ステージが人だらけ。その分アラが目立たなくていいんですけど(笑)。あれは1972年の夏くらいだったと思うんですけど、人数が半分くらいに減って。女性ヴォーカルで残ったのは、聖心の田宮悦子さんひとりだけ。青学の竜真知子さんがその後に入って来ました。音楽的にはそれまではフォークソングっぽいものをやってたんですけど、ロックっぽいものとかもやるようになって、ボブ・ディランみたいなものとかCSN&Y(クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング)のコピーなども演奏(や)るようになっていきました。

※脚注:1969年から1976年にかけて存在したレコード会社で、今日のインディーズレーベルの先駆けとされる。同社から作品をリリースした主なアーティストは、吉田拓郎氏、泉谷しげる氏、海援隊など。

−−そして“ヤングタウンシンガーズ”メンバーを中心に“NORA”の結成となるんですね。CDのライナーノーツに、“NORA”がまだ正式レコードデビューする前、T.Rexの日本武道館コンサートで前座を行ったときのエピソードがありました。「俺たち(T.Rex)の前座に相応しい日本のロックグループはいないか?」とバンド探しが行われ、“NORA”に白羽の矢が立ったそうですね?

すぎうら)そうだったのかも知れません。正直ピンとこなかったですよね。当時の世界的バンドのステージで演奏出来るということが、あんまり現実感覚でありそうもないことだったんで。T.Rexのリハーサルを見てても何か今ひとつ、ピンときてないというか…。武道館のステージに立つと、向こう(客席)が暗いからお客さんの顔ほとんど見えないし、天井高いし、そしてホールがとても綺麗なんですよね。袖までの空間が例えば100メートル位あるじゃないですか? そういう広い空間で自由に歌えるということが生理的に気持ちよかったことだけは、覚えてますね。

−−武道館といえば、その数年前(1966年)にビートルズが日本公演を行ったステージです。すぎうらさん達“NORA”メンバーが敬愛するビートルズと同じ舞台に立つのは、感慨深いものがおありになったのでは?

すぎうら)まぁ、観る側と演奏(や)る側では違うのかもしれないけど。でも言われてみれば「あ、ビートルズもここでステージやったんだ!」と誰かが言ったかも知れない。それも含めて現実感とかけ離れたことが色々と続いたという気がしますよね。プロでやること自体もあり得ないことみたいな感覚でいましたし(笑)。とにかく、とってもラッキーだったと思っています。

−−ご自身の曲が初めてレコードになる時のお気持ちというのは、いかがでしたか?

すぎうら)今でも非常にまじまじと覚えているんですけど、出版社から印税が入るんですよ。1円の桁まで“自分がやりたいことをやって初めて稼いだお金”という感覚で、“働くことの意味”を初めて感じたことを覚えていますね。“NORA”の最初のシングル「懐かしのメロディー/風にまかれて」(ポニーキャニオン・1973年3月発売)がトータルで5万枚くらい売れたと思うんですけど。昔はレコードが売れたんで、5万枚というのは大したものでなくて(笑)。オリコンの100位以内に入らなかったらしい。それを確かめることはなかったんですけど(笑)。

−−実質バンド活動はどれくらいになりますか? そのあたりのご事情を支障のない範囲でお願いいたします。

すぎうら)バンド(NORA)の活動は、実質1年くらいじゃないですか。僕たちが解散するまで…。まぁメンバーの音楽性が全部一緒ということはありえないし。ビートルズのコピーのようなものも演奏(や)りましたけど、そういう部分もやっぱりオリジナル曲でやりたかったですし。でも音楽って自分で創っていくものだから、何が出来てくるか分からないじゃないですか? ロックなもの、フォークのようなものも、自分はそういう中でやってきたこともあるし。
1969年に僕が書いた曲なんですけど、「民謡のメロディでブルースのギターのようなものを入れても音楽になるんじゃないか」というものを書いてたし。やっぱりビートルズが教えてくれたのは“常識的な捉え方じゃなくて、新しいものを創っていくときは何か違う感覚というものが必要とされるということ”だった。そういうものを考え合わせると、メンバー個々の志向性の違いから「それは違うんじゃない?」とかいうこともあって、自分のやれることが本当に狭くなってきて、それがストレスになったということは確かにありましたね。求められているもの(詩・曲)と違うものを、またいっぱい書いてしまう。「このままではこのバンドでは、やりたいことが出来ないなぁ」…と。

−−4人のメンバーそれぞれが独自の音楽性を持っていらっしゃる中で、アルバムの録音スペースは決まっている訳ですね。その中で石田斎(ひとし)さんの作詞作曲のみ、ファーストアルバムには入っていません。

すぎうら)確かにこのアルバムには入ってませんが、石田さんと僕で書いたものが数曲あって。この“NORA”ではレコーディング出来なかったんですけど、ほかのグループ(絵夢、とんぼちゃん)に楽曲提供みたいなことをやってるのもあるんですよ。石田さんは僕らより学年が一つ上なんで、僕たちは彼を“さん”づけで呼ぶんですが、グループを巧くまとめていくことを事務所から要求されていた部分もあって。でも「石田さんももっと作品を生む側にスタンスがあってもよかったかな」という気はしますね。
僕、知らなかったんですけど、“NORA”の前に“ビロージュ”というバンドがあって、石田さんと松田(良一氏)と相沢(行夫氏)はそこで一緒にやっていたそうです。大学が一緒だったということもありますけど。今思うと「“NORA”としてもう少しやってもよかったかな」という気はしますね。
事務所社長の桂田実さんが、僕らにとってはビートルズのジョージ・マーティンのような人で、アレンジも出来るひとだったんで、そういうところでもう少し…。色々言っていけば不満はあったと思いますが、出だしとしてはこのバンド、まあまあだったかなと思ってます。

−−“NORA”の解散は、時期的には1974年春ごろでしょうか?

すぎうら)1974年の春にもう“NORA”は解散していたと思いますね。

−−そうしますと、解散から『マッハバロン』まで半年近く間があると思いますが、その頃すぎうらさんはどういった音楽活動をされていたのでしょうか?

すぎうら)覚えているものとしては、“リクルート”の高校生用フィルムの挿入歌を歌ったことでしょうか。内容は観たことないんですけど、それの「イメージソングみたいなものを挿れたい」ということで、その曲を作ったことをよく覚えてます。詞はプロの方のもので、曲は最終的には僕が書いたものが採用になって、歌も歌いました。ただ学校を回って上映会をするようなフィルムだったので、残念ながら一回も観ることが出来ませんでした(苦笑)。
それから、TBSラジオ放送の総理府提供番組で、各省庁のキャンペーンソングをいくつか作曲して歌ったこと。また、黒柳徹子さんの『チャターボックスS』(1973〜1974年)という番組で、当時としては大変珍しい、シンセサイザーで効果音をつくったラジオドラマ『カモメのジョナサン』の挿入歌をいくつか。これは歌っただけです。
−−『マッハバロン』は1974年10月放送開始ですから、主題歌と副主題歌のレコーディングは同年夏頃でしょうか?

すぎうら)『マッハバロン』の音を録ったのはたぶん夏ですね。8月くらい。それより少し前から浅川マキさん(※脚注)のバンドで動き始めたころだと思うんですね。

※脚注:浅川マキ女史は、日本国内に於けるアンダーグラウンドを主体とした音楽活動の第一人者。「渇いたブルースをうたわせたら右に出る者はいない」と言われ、ジャズ、ブルースやフォークソングを独自の解釈で歌唱した。『恐怖劇場アンバランス』(1973年/円谷プロダクション・フジテレビ)では、第7話「夜が明けたら」に自身の楽曲『夜が明けたら』を唄う歌手として出演している。

−−浅川マキさんのバンドの活動と並行して『マッハバロン』を歌われた?

すぎうら)そうですね。マキさんの方も地方を回るんでなく、その頃は東京都内のライブハウスを3人くらい、ギター2台とピアノの編成で。そういうのをやりつつ、僕は自分の新しい曲を書いていたという記憶はありますね。夏になってきて、『マッハバロン』の頃には、「そのうち(すぎうら氏の)ソロでアルバム出そうよ」っていう話になってきたと思うんですよ。まあ実現できるのは翌年(1975年)だったと思います。「そのために曲を書きなさい」みたいなことを言われて、それもあってひたすら曲を書いてました。

−−初めてのソロ名義のシングルが「マッハバロン/眠れマッハバロン」(ポリドール版・朝日ソノラマ版ともに1974年10月発売)ということになるのでしょうか?

すぎうら)そうですね。

−−『マッハバロン』オープニング曲・エンディング曲の、レコーディング当時の思い出をお訊かせください。

すぎうら)あれは事務所から突然言い渡された仕事でしたからね。どういうところで僕が呼ばれたかははっきりしないんですけど、少なくとも関係者が僕の声を聴いてみないと分からない。「使えるか、使えないか」ということも含めて、担当ディレクターなどが聴いて、僕に声をかけてくれたのだと思うんですけどね。何せ突然ですから。レコーディング1週間前に、事務所に「こういう仕事が来てて」みたいな風で、譜面と歌詞カードと、何か伴奏があったのかな? それで「スタジオに入るまでに練習しておいてちょうだいよ」と。“NORA”の時でもそうでしたけど、東京ってスタジオ代が高いじゃないですか。ホントに高かった! 1時間5万円位かな? スタジオ代は“金食う虫”の時代だったんで。オケ作って「ハイ、歌、録りますよ」で1日2時間くらいしか、時間もらえなかったと思うんですけど…。
それで「OK出るように。歌詞やメロディを間違えないように」と下準備して、しっかり覚えてスタジオ入って。そういうような状況でレコーディングをやったと思います。ただレコーディングがどこだったか…目黒の大橋あたりのスタジオだったような記憶があるんですけど。…(思い出して)やっぱり大橋だ! ポリドールのスタジオが大橋にあったから。
結構遅い時間、夜8時過ぎから入ってやったんですけど。オケを録るときのリハーサルの音が聴こえてきた時に、もうとても嬉しくて(笑)。これは没個性の音楽じゃなくて、そのまま素で歌わせてもらえそうなオケ録りをしていたものですから。『マッハバロン』は子ども向け番組だというのを先に聞いていたんだけど、そういう要らない配慮というか、「子ども向けだから音符を丁寧に歌って」とか、「言葉や日本語をちゃんと発音する」とか、そういうことを含めて「結構拘束された状態で録音するかな?」と思ってたんですが、『マッハバロン』の場合は全くのロック。僕はロックというよりも、セックス・ピストルズみたいなアナーキーなロックに聴こえたんですけど。ネットで見ると結構「グラムロックで何とかだ」とか書いてありますが、僕はグラムロックとは全然思わなくって、どちらかというとパンクミュージックという風にあの曲を受け取りました。
アレンジはエフェクトをかけて。詞はあれですよ。曲は本気でロックやっているような雰囲気ですし、でもお客さんは幼稚園児だし、これはやっぱりパンクでしかないですよね(笑)。もう「どう歌ったらいいの?」という。でも作詞の阿久悠さんの詞は、やっぱり格調高いですよね。日本語のレベルが高いというか、そういう知的なものを汲(く)んでるからああいう世界になったし、それが聴いている人にも伝わるし、それはやっぱり日本語でできる音楽のレベルの高さを多分皆さん感じてるんじゃないですかね。普通書けないですもん。一つだけ抜いてきても「蹂躙(じゅうりん)が何とか」ってあるけれど、それだけでなく全体的に、子どもに融合・迎合してる言葉じゃないですからね。“正義と悪”の緊張関係が、あの詞の字面を見る限りはかなり凄いじゃないですか。クッキリ関係が現れているみたいな 。
そういうことを含めて、それを特撮でドラマにしちゃうぞみたいなオープニングというか。観ていたのは子どもたちだったと思いますけど、結構インパクトはあったと思いますね。もう今までの自分たちが観てきた“悪と善”みたいなものとは全然違う深さで、「子どもたちの頭に入ったかな?」という気がしないでもなかったですね。ただ後の結果は僕には分からないです(笑)。どうなるかは分からないというか。もう、だからドラマそのものは観ないだろうし。この時はマキのバンドをやらなきゃいけないし、その落差が凄かった気がするんですよ…。

−−すぎうらさんは当時、実際に『マッハバロン』などの映像(番組)をご覧になられたことはありましたか?

すぎうら)観たことは殆どなかったと思いますね。

−−そうしますと、レコーディングは譜面と歌詞カードのみでイメージして歌い上げたということに?

すぎうら)ドラマ本編のことは一切聞いてないので、「貴方は歌う人」みたいなところがあって。ただ一回通して歌ったとして、それをディレクターから「ここの気持ちの入れ方はこういう風にしてくれる?」とか、「ここにインパクトつけて」みたいな要望を言われて、形にしていく部分はあったと思いますね。ちょっと直せば、今でも通用する骨格にはなってますよね。「ギターがChar(チャー)じゃないか?」とネットでいろいろ言われてるけど(笑)。Charがデビューしてくるのはもっと後だったせいもありますけど、まぁ、あの頃は彼の顔見ても判らなかっただろうな。でもギターの彼が弾いた瞬間から「あ、これイイわ」という安心感がありましたね。すごい歌い易いというか。あれを譜面でギター弾かれているとね、たぶん歌もすごい固くなっちゃったと思いますけど、あれだけ自由に弾いてもらってると、歌う方も「じゃぁどういう風に歌おうか」と邁進できたところがあって。たまたまああいう本チャンの歌い方になってるとか。あれもまた「偶然の産物」というね。あの歌いだしは気持ちいいですよね。自分で言うのも変だけど(笑)。

−−先ほどのお話から伺えるように、スタジオ代の件もあり、レコーディングのスケジュールはかなりタイトだったと?

すぎうら)「テイク1(ワン)OK」ではないですけど、「テイク2(ツー)OK」みたいなフォローはあったと思いますね。結局、ディレクターの要望でテレビサイズのもの、ワンコーラス、フルコーラスとか何種類かのパターンを録ったのを何となく覚えてますね。僕の場合声帯が弱いので、長く歌うと声がかれちゃう経験があるんで、それが心配でしたけど、あれ聴く限りではそういう素振りを感じませんね。1番と2番だけとか、ファーストコーラスと間奏後とか、それは別テイクで録ってるかもしれませんけど、ワンコーラス分はほぼそのままOKになったんです。結構早く収録していったと思いますね。ところどころOKになってるものでも、「ここもう少し時間があれば、まとめて体裁を整えて歌ったけどなぁ」というところありますけど。まぁ、それでもOKだって言われたから、やっぱり時間に追われているところもちょっと感じ取れるようなレコーディングだったと思うんです。

−−エンディングの「眠れマッハバロン」、こちらはオープニングのロックに対し、ソフトなバラードで正反対の魅力の曲ですが、そちらの思い出などをお願いします。

すぎうら)これを言うと作曲の方(当時は井上忠夫氏=後の井上大輔氏)に失礼だけど、ビートルズの「フール・オン・ザ・ヒル(The Fool On The Hill)」に似た感覚というか。だからこっちの方がすぐに覚えられるというか。“眠れ”というくらいだから、自分としては子守唄みたいにしたくて、そういう声の出し方をしたかったというか、そのときは「子どもを意識したような、包み込むような歌い方をしたいなぁ」という感じで。かえってそれが曲の旋律を弱くしたのが、若干後悔しているところではありますね。もう少し普通に声を出せば、もっと皆さんに歌ってもらえるようになったかも知れないという気はしますね。録っているときはそこまで思いがめぐらなかった。
それとやっぱり作詞家と作曲家が、当時のトップクラスの方の楽曲だったということが大きく影響しているかなぁ。自分以外の曲を歌ってレコーディングしたのは、多分このときが初めてだったと思いますので。まぁその前に『ヤングタウンTOKYO』で、みんなで歌った体裁の曲はありましたけど。やっぱり、もう少し作曲の才能があったらよかったなぁという気がしますね(笑)。
−−こうした特撮ヒーロー番組の場合、イベントやショー、サイン会もよく開催されます。すぎうらさんは『マッハバロン』関係で、こうしたイベントに出演された経験はおありでしょうか?

すぎうら)1回だけありました。多分オンエアされて割合すぐだったかな? その(1974)年、11月の前のほうだったと思いますけど、東横線の“多摩川園”前で着ぐるみショーがあったんですよ。音響はちょっと悪くて、場内のスピーカーから流すような環境で歌ったと思いますけど。僕は子どもたちが集まるところで何かやるのは初めてで。着ぐるみショーで衝立(ついたて)があって、向こうが舞台で、こちらの控え室で待ってるうちに、ステージの方でボコボコ! ボコボコ! って何か妙な音がするんですよ。で、悪役の人だったと思うんですけど、その人たちがステージ裏に来て言うには「子どもたちが本気になってステージに石を投げてるんだ!」って(笑)。「ヒーローショーは命がけだね」っていう風に思いました。僕はヒーローショーは『マッハバロン』ショーが初めてだったし、子どもたちって、すぐのめり込むから、そういう行動をしちゃうのかも知れないけど、凄いなぁと思いましたね。それが終わってからかな? トークがちょっとあって、それから歌を歌ってからサイン会。「もう書き疲れた!」というくらいの数、書きました(笑)。

−−『マッハバロン』と同時期に、同じ日本テレビの『おはよう! こどもショー』(1965〜1980年)の中で放映されていた、ミニ番組『行け! 牛若小太郎』(1974年)の主題歌もすぎうらさんが歌っていらっしゃいます。

すぎうら)多分…『マッハバロン』をやって、「一応ちゃんとこの男は歌えるんじゃないかな」という風に、日本テレビさんの方で判断してくださって、立て続けに主題歌の仕事がいただけたんじゃないかな?

−−『牛若小太郎』は、B面の「来るか妖怪」の歌詞(作詞は山崎あきら氏)が非常にユニークで、印象に残ります。

すぎうら)対象が子どもですし、あんまり難しい言葉を入れちゃうと覚えてくれないし。作詞家の方は「これくらいかな?」という感じで書いたんだと思いますね。歌う方は「これ本気?」という感じで(爆笑)。

−−『牛若小太郎』の作曲は大御所・三木たかしさんが手がけていらっしゃいますね。

すぎうら)三木さんはカラオケを作ってるときに、スタジオにいらしたんですよ。僕に一応譜面見せてくれたんですけど、「こっから後は君の感覚で歌ってよ」みたいな。全部書いてない譜面で…。「え〜!? それ先生、手抜きじゃないですか〜!?」って(笑)。

−−それは三木先生がすぎうらさんの才能を認めてくださったからだと思います(笑)。

すぎうら)あの方も凄い売れっ子の作曲家だから、アレンジとか全部譜面に書けなかったんだと思いますよ。時間的にそんな余裕がなくて。それで結構あたふたとスタジオを出て行かれたような気がするんです。僕は「う〜ん」と悩むしかなくて。あのままで言葉をやっていくと間が持たないし面白くないし…。結構僕としてはあれ、力(りき)んで歌ってるんですよ。唸ってるというか。それ一番悪戦苦闘したところです。「自由に」はね、やっぱり難しいですよ。「もっと自由に」とか言う方は簡単なんですが…。
それと同時期にやったのが、シェリーさん主演の『オズの魔法使い』(1974年)。あれの中でも数曲歌ってて、作曲が星勝(ほし かつ・元“モップス”メンバー)さんで、僕はその曲結構気に入っていて、そのLPが欲しいなぁと思ったんですけど、もらえなくて。あれ欲しかったなぁ…。で、あの番組自体がちょっと不人気だったのか、目立たなくて消えてしまいました。でもなんかね、「魔法の国は怖い国〜♪」というような歌詞のところは妙にいつまでも覚えていて(笑)。シェリーさんが「助けて〜!ブリキマン!!」と叫んで、それと掛け合いで僕がヴォーカルで入るような。いかにも星勝さんらしい感じの歌で。ああいうちょっとブルースっぽい感じの歌も歌ったことないんで、自分は書けないし。でも全体的に「これよかったねぇ」という感じだったんですけど。

−−そうしますと、『マッハバロン』(月)、『牛若小太郎 』(月〜金)、『オズの魔法使い』(土)と、当時(1974年秋〜1975年春)の日本テレビから、日曜日以外連日、すぎうらさんの歌が流れていたということになるんですね。

すぎうら)それはね、多分日本テレビさんが手を抜いたんです(爆笑)。「ついでだからこいつに全部歌わせてしまえ!」みたいな(笑)。

−−そして『マッハバロン』の後番組となるアニメ『ガンバの冒険』(1975年)。これはエンディングテーマ「冒険者たちのバラード」を引き続き、すぎうらさんが歌っていらっしゃいます。

すぎうら)僕、スタジオに呼ばれた時は、オープニングを歌うんだろうと思ってて。関係者に「オープニングの歌詞(譜面)がないんですけど?」って訊いたら、「オープニングは出番ありません」と。どこで歌うのかと思ったら「エンディングです」って(笑)。なんだぁ、どこで歌うのかと思っちゃった…。『ガンバの冒険』はうちの娘が大好きで観てましたよ。子どもに健全なアニメだったという印象です。

−−その後、すぎうらさんが特撮やアニメの主題歌を歌われたことはあったのでしょうか?

すぎうら)『ガンバの冒険』が最後だったと思いますね。そのギャラで事務所への前借りもちょうどチャラになったものですから。僕はつい最近まで「事務所が僕の前借りのために一連の仕事をあてがってくれたのかなぁ」と思ってきたんですが、つい最近それを社長に訊いたところ「いや、そんなことは全然ないよ」って言ったんで。でもまぁ、ちょうど借金がなくなりました。えらいことでした(笑)。
−−『ガンバの冒険』以後の音楽活動につきましても、お訊かせください。

すぎうら)以後は浅川マキさんのバックをメインで。やっぱりそっちの方が本気だったもんですから。(バックサポート)メンバーもどんどん良くなってきたし。1975年の暮れかな? 浅川マキさんが「灯(ひ)ともし頃 MAKI 7(7はローマ数字表記)」というアルバムを出して、そこには坂本龍一も入ってて、あと当時モダンジャズの若手のスターたちがどっさりレコーディングに参加していて。 それと僕個人のLP「街」(ポリドール・1976年発売)のレコーディングの時期が、ほぼ重なってたんです。でもマキさんには「あんた、自分のあれ(レコーディング)があるから、こっちのレコーディングは来なくてもいいよ」と言われたんだけど、「来なくてもいい」と言われたら余計行きたくなるという(笑)。すごいメンバーが集まっていたんで、「これを逃したら二度とこういう機会はないだろう」という感覚がありました。考えたらあのLPも凄いメンバーだったなぁと。僕はリズムギターしか弾いてませんが(笑)。ぜひ機会があれば聴いてもらえばと思います。
“NORA”みたいなバンドをやってると、普段はチャラチャラしてて個人で背負う部分が少なかったんです。ステージでやってても分散されるし。その後LP出して、その頃(自分の)ソロの最初のステージが浜松町の郵便貯金ホールだったかな? 2千人ちょっと入るところでやったんですけど、僕独りがお客さん2千人の前にポツンといて…。「お客さんの好奇心の視線全部を自分独りで浴びるということが、こんなにも凄いことなのか!」っていうのを初めて感じました。「どういう風に歌い出したらリラックスしてもらえることが出来るだろうか」と。そのとき初めて「ステージをやるということはどういうことなのか」を知りました。独りで歌って、お客さんに歌うことを理解してもらって、「あ、いい曲ね」とか「これ駄目ねぇ」みたいなことを言ってもらえるためには、場数を踏まないとできないだろうなぁと言う気が、あの時痛切にしました…。結構それまでにキャリアいっちゃってますから。「ちょっとバンドのときにリラックスし過ぎたなぁ」と後悔しました(笑)。
あとマキさんのレコード会社の担当ディレクターから、CMの仕事が来ましたね。『ガンバの冒険』の後で、1975年の暮れか年明けすぐくらいに、「ハウス食品の“そばゲッティ”という商品のCMソング(※脚注)を歌ってください」というものでした。

※脚注:作曲は森田公一氏。残念ながら現時点では映像や音源に辿り着けていないが、「♪Let's get together そばゲッティ」「♪ゲッティゲッティ〜・・・・・・ゲッティ〜ソースが!!!・・・極めつけ・・・」など、ネットでこのCMソングを回想する人は多い。

−−それでは最後に、全国のすぎうらよしひろさんファンへのメッセージをお願いいたします。

すぎうら)『マッハバロン』放送開始から40年、今でも作品や主題歌のファンが沢山いるということが、まず驚きでした。僕は番組のオープニングとエンディングを歌うことで、ファンの皆さんと出会うこととなりましたが、それはひょっとすると“偶然”ではなく“必然”だったのかもしれません。40年という長い年月、オギャーと生まれた人だって40歳になる程の時間が経ってます。それでも、僕が歌った歌を愛してくれる人たちがいるということで、今回このオフ会(音速男爵オフ会)で再び歌う決心をしました。今回きりになるかも知れないですし(笑)、また歌うこともあるかも知れませんけれど、そのときはまた皆さんにお会いできたらと思います。またこれからも何らかのことで僕の歌を聴くことがありましたら、“NORA”のCD(「NORA VOL.1」ULTRA-VYBE,INC.)も出ましたけど、それも含めて聴いていただけましたらと思います。よろしくお願いします。

−−本日はありがとうございました。

2014年10月18日 愛知県安城市“Cafe PIQUANT”にて
取材・構成◎「こちら特撮情報局」morikawa_

すぎうら よしひろ

歌手・ミュージシャン
1949年7月14日 愛知県出身。神奈川大学在学中の1970年にTBSラジオ『ヤングタウンTOKYO』の番組内ユニット“ヤングタウンシンガーズ”でデビュー、1973年にはユニット内外のメンバー(石田斎氏、松田良一氏、相沢行夫氏)と共にロックバンド“NORA”を結成、解散後はフリーで活躍。1974年10月放映開始の特撮番組『スーパーロボット マッハバロン』の主題歌を歌唱。そのロックバンドで鍛えたヴォーカルは、日本特撮音楽界に新たなる歴史を残した。以後『行け! 牛若小太郎』『ガンバの冒険』の主題歌を歌唱、並行して歌手・浅川マキ女史のバックメンバーとしても活躍。更に“とんぼちゃん”や“絵夢”などへ楽曲を提供し、ミュージシャンとしての幅広い活躍を見せる。
なお作品や時期により、杉浦よしひろ、杉浦芳博の名義で表記されている。

宣弘社&日本現代企画 特撮 GREATEST HITS
DVD スーパーロボット マッハバロン
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