“日本現代企画 狛江スタジオ”跡
狛江スタジオと隣接していた畑は唯一40年前の面影を残す。中央のビニールハウスの後方辺りが狛江スタジオ跡。スタジオ跡後方にはNTTの電波塔が確認できる。狛江スタジオ裏に流れていた川は1975年頃より暗渠化が始まり、現在は野川緑地公園になっている。
“日本現代企画 狛江スタジオ”跡レポート
レポーター◎「こちら特撮情報局」奥虹

1)先鋭的技術者グループ、誕生す
かつて“狛江スタジオ”を拠点として活動した映像制作会社“日本現代企画”は、1967年頃、円谷特技プロスタッフ・小林哲也氏をリーダーに結成された、先鋭的技術者グループだ。
『怪奇大作戦』以降、主だった番組製作が途切れた円谷プロでは、優秀なスタッフ諸氏へのリストラを敢行。“嵐の時代”を経た1970年、当時の円谷一社長らに加え、小林哲也・高野宏一・鈴木清各氏らが共同出資し、(元々円谷特技プロ自社スタジオとして購入を検討していた)“狛江市和泉1366〜1367番地”の土地(約200坪)を取得、撮影スタジオを擁した制作会社としてスタートした。当時の会社代表は小林哲也氏。
“日本現代企画”立ち上げメンバーのお一人、鈴木清氏はその経緯について、次のように語ってくださった。
「『ウルトラセブン』を撮っていた頃、昭和42(1967)年には円谷プロの製作費は赤字だった。当時、ステージやライトにかかるコストが高く、製作費を圧迫していたので、『もうレンタル機材では駄目だ。知恵を出し合って安くあげようじゃないか』という、円谷プロを心配する気持ちから社内有志で(日本現代企画を)立ち上げました」。
日本現代企画は、1971年『シルバー仮面』製作、1972年『アイアンキング』製作、1973年『スーパーロボット レッドバロン』製作、1974年『スーパーロボット マッハバロン』製作・『日本沈没』(テレビ版 特撮パート)製作、1975年『少年探偵団(BD7)』製作などを経て、1970年代末頃に会社を清算、解散した。1977年、上田利夫代表・鈴木清氏をリーダーに同社スタッフ有志が集い“創英舎”を設立、1977年『小さなスーパーマン ガンバロン』、1978年『UFO大戦争 戦え! レッドタイガー』が製作されている。
“狛江スタジオ跡”裏手。この3軒分がほぼ狛江スタジオの敷地幅に相当する。撮影位置は、裏手の野川緑地公園から。10年前、ここを訪れた加藤寿氏ですら「何となく見覚えがある程度」と語るほど、スタジオの痕跡はない。
2)“日本現代企画”は“現代運送”?
現地検証のため、住宅地図(1973年・1975年・1977年・2013年度版)を携え、狛江市和泉本町(当時.狛江市和泉)にあった“狛江スタジオ”跡とその周辺を訪ねた。
一見するも、かつてこの場所から多くの名作が誕生した、憧れの“聖地・狛江スタジオ”跡とは到底実感できない。「スタジオの痕跡が皆無」だからだ。
『レッドバロン』放映年である1973年の住宅地図に照らし合わせてみたところ、位置的には、上の画像の3軒のお宅辺りが当時“狛江スタジオ”が存在していた箇所だと判明した(画像はスタジオ跡を当時の裏口方向から見たアングル)。
1973年度版住宅地図(実質1972年時配置)では、“現代運送”表記の建築物2棟が確認できる。また1975年度版住宅地図(実質1974年時配置)では、スタジオ2棟・プレハブ社屋1棟の他、倉庫と思しき3棟が確認できる。照明機材貸出しや人材派遣業務による収益力アップ等に裏打ちされ、『レッドバロン』『マッハバロン』製作時の1973〜1974年には、施設拡充が図られたものと推察される。
講談社大全掲載、“アイアンキング対シルバーライダー”の一葉には、撮影テストを見守る30歳当時の鈴木清氏の背後、スタジオ壁面付近に“現代運送”と記されたプレートが確認できる。
狛江スタジオ跡裏手に立ち、野川緑地公園から“中通り”(公園入口)方面を見たアングル。野川緑地公園入口への向かい、中通りに接した右辺りに、40年前、“清水湯”という銭湯があった。日本現代企画スタッフ諸氏や加藤寿氏らキャスト諸氏は、社内にシャワーが完備されるまでは、“清水湯”を頻繁に利用していたようだ。
3)自社スタジオ前の火柱塔
ところで、多くの映画会社がそうしたように、日本現代企画でも“撮影効率化”のため、“自社スタジオ近隣ロケ”や“自社車輌ロケ転用”を敢行している。『レッドバロン』第5話劇中、「SSIが敵ロボット・豪龍の猛攻撃を受けるシーン」もその一例だ。
当該ロケ地は、狛江スタジオと中学校(現.狛江市民グランド)に挟まれた市道の一角。アイアンホーク号など3台を路上に停め、豪龍への反撃の機会を窺うSSIメンバーたちの後方、およびメカロボと戦う大郷と哲也の背景には、狛江スタジオの一角が映り込んでいる。
同シーン、スタジオ前駐車場にはカーキ色2トン車(2台)が確認できる。おそらくこれら車輌は、通常時、撮影機材や備品などをロケ地まで運搬する社用車と思われる。第31話、鉄面党メカロボ(人間態)がリンゴ爆弾を輸送する際に使用した車輌も、駐車場のそれと同型同色だったので、“自社車輌ロケ転用”の一環だろう。加えて第4話冒頭、大助たちを誘拐するため用いられた車輌は、明らかに日本現代企画所有の“ロケバス”だった。
中通りから野川緑地公園入口を見たアングル。向かって左手奥が狛江スタジオ跡、左手前に清水湯跡、中通りを挟んだ向かいには『レッドバロン』第11話冒頭に登場する、“真理の居住地”として撮影されたHマンションが現存する。
話を戻そう。「豪龍の攻撃を受けた」という設定の下、狛江スタジオ真向かいのグランド金網フェンスが激しく燃えている。前述の通りここは当時中学校の敷地で、くだんの金網フェンスも当然中学校所有のもの。
当該シーンをコマ送りで観てみる。撮影スタッフはフェンス周辺、アイアンホーク号など3台の停止位置付近の地面に(火薬とガソリンを仕込んだ)3基の装置を仕掛け、発火させたようだ。が、いささか装置固定が不安定だったと見え、ビル4〜5階相当(!)の高さまで昇った火柱のうち、3発目のそれは真上へ昇らず側面の金網フェンス方向へ真横に進み、引火。コーティングされた淡緑色のビニール部分が、すっかり焼け落ちている(ただし、3本目の火柱の方向は、演出の一環であったかも知れない)。当時、日本現代企画の撮影スタッフは、この件で中学校側からクレームを受けたのではないだろうか?
右は第5話、大郷ボス・哲也がメカロボと戦った日本現代企画の駐車場があった辺り。当時、左は中学校の敷地だった(現.市民グランド)。
坂井哲也役の加藤寿氏は、狛江スタジオ近隣での撮影について、次のように語ってくださった。
「私も10年ぐらい前だったか、(大郷)自動車修理工場を見に行ったのと同じ時に、狛江スタジオ跡も通ってみたことがあります。当時でも既にスタジオの痕跡はなく、何となく見覚えがある程度でしたが…。(中学校の)フェンス炎上の件ですが、確か車(アイアンホーク号)のボンネットが飛び火で燃えて、その火が(中学校フェンスの金網に巻いたビニールに)燃え移ったような気がします。(中学校側から日本現代企画側に)クレームがあったかどうかは分かりません。クレームがあって揉めたという噂も聞かなかったと思います。(日本現代企画社員であった)鈴木(清)監督なら、もう少し詳しくご存じかも知れません」。
鈴木清氏は語る。「その回(『レッドバロン』第5話、外山徹監督演出回)は僕の回じゃないけど、もしも中学校から会社へクレームが来ていたとしても、僕ら監督が対応するのではなくて、会社の制作部の人間が“本来の業務”として対応したはずです。(中学校のフェンス炎上の件は)僕の耳には入っていないです」。
『アイアンキング』第1クールレギュラー・森川千恵子女史が、やはり撮影中(頭髪部分への)飛び火事故に巻き込まれ、予定話数を消化する前に降板したという前例がある。
『レッドバロン』後期エンディングにある「攻撃されるアイアンホーク号(本編より流用)」の描写に顕著だが、日本現代企画スタッフ諸氏の火薬・ガソリン使用量の多さはキャスト諸氏に容赦ない。迫力に溢れた画(え)を撮るためには安易な妥協を拒み、危険な撮影に果敢に挑戦する、その職人気質ぶりが垣間見えるかのようだ。
第5話、敵ロボ・豪龍の急襲シーンが撮影された場所。左の住宅辺りに“ビュフェfunny(ファニー)”と狛江スタジオがあり、道路を挟み、右側に中学校(現.市民グランド)があった。突き当たりは中通りにあるNTT狛江(旧.?m?d???d?b??)。
4)“聖地・狛江スタジオ”の夢の跡
再び話を戻そう。当時、スタジオ側(市道を挟んで中学校向かい側)の景色はどうだったのだろうか?
『レッドバロン』第5話劇中、SSIが豪龍の猛攻を受けるシーン。メンバーの背後に、紺色の幌の付いた“ビュフェFUNNY(ファニー)”の看板が確認できる。同店舗は当時、狛江スタジオ駐車場の隣接地にあったレストランで、日本現代企画スタッフ諸氏や出演俳優諸氏にとって“憩いの場”であったと推察される。
大郷ボスが戦っている後ろに見えるプレハブは、日本現代企画の社屋の一部(?)。また、メカロボを担ぎ上げる大郷ボスの背後にチラリと映り込んだ煙突は、狛江スタジオ裏手にあった銭湯“清水湯”のもの。劇中の煙突に“水”と“湯”の文字が見える。スタッフ諸氏は“撮影”いう名の戦いの疲れを癒すため、ときに“清水湯”の湯船で鋭気を養ったことだろう。
アイアンホーク号は現場(当該の市道)へ到着するまでに、中通りを通過する。その背景に見える赤い幌のお菓子屋さん(現.米穀店)を訪ね、買物がてら40年前の様子を伺ってみた。
70歳過ぎのご婦人(店主さん)がご親切に教えてくださった。
「40年前はまだ家の前の道路が狭かったんだけど、道路が拡がるんで15年前に敷地の一部を売って、昔より家の位置が後ろに下がりました。あの頃は(狛江)スタジオに、いつも色々な役者さんが来ていたみたいで、うちの娘なんかも友達としょっちゅう撮影を見学させてもらっていましたよ」。
『シルバー仮面』『アイアンキング』『レッドバロン』『マッハバロン』など、輝かしい特撮諸作品に出演された俳優諸氏。先鋭的な撮影に腐心奮闘するスタッフ諸氏。その作品づくりの様子を日々間近で観る機会に恵まれたご近所さん。日本現代企画作品ファンのひとりとしては、その夢のような垂涎の環境をただただ羨むばかりだ。
中通りから狛江市民グランド越しに見る狛江スタジオ跡方面の景色。遠景に見える住宅街に、かつて“特撮作品制作の聖地”があったとは、にわかに信じ難い。
鈴木清氏は語る。「日本現代企画の台所事情が段々と切迫してきたわけだけども、僕らは制作者だから、あくまで作品を撮り続けていかなければならない。だから上田利夫さんに代表になってもらい“創英舎”を立ち上げました。『(小さなスーパーマン)ガンバロン』の頃には、まだ狛江のスタジオはありましたが、そこは使わず、調布市国領町にあった駐車場と倉庫にステージをつくって、『ガンバロン』と『レッドタイガー』を撮りました」。
今や狛江スタジオ跡を訪れてもその「痕跡は皆無」ではある。が、『レッドバロン』第5話を視聴するだけでも、狛江スタジオ社屋を背景に、危険な撮影に挑んだ日本現代企画スタッフ諸氏や俳優諸氏の熱い息遣いが伝わってくることだろう。
狛江スタジオを擁してからの日本現代企画の活動期間は、1970〜1977年の7年間と短命ではあった。が、先鋭的な“スキャニメイト”の導入や、ロボット内部にまで及ぶ緻密なプロップやセットを用いた高度な撮影技術は、もはや“伝説”の域にある。卓越したそのセンスは、日本現代企画を支えた老練な鈴木清氏たちから次世代の後継者たちへと、着実に継承されている。
諸事情から断腸の思いで“聖地・狛江スタジオ”を離れるに至った、日本現代企画の戦士たち。しかし、彼らの纏った“40年前の熱気”は、今もこの地に息づいているように感じられてならない。
※“中学校一部敷地の狛江市民グランド移行時期”について(2014年3月21日加筆)
中学校の敷地の一部が、いつから“狛江市民グランド”になったのか、ネット上にデータがない。
1972年度住宅地図では、中学校西側半分はまだ同敷地の表記のまま。当該地には1975年度版に“グラウンド”との表記、1977年度版に“狛江市営グランド・丸山児童遊園”との表記がある。
中学校サイト内の沿革に「昭和48(1973)年3月25日、西側校舎・管理棟・プレハブ2棟撤去」の一文があることから、『レッドバロン』『マッハバロン』が撮影された1973年4月〜1975年1月の間に、中学校敷地の一部が、狛江市管理のグランドになった可能性がある。後日、関係各所に確認を取り、市民グランドへの移行時期情報を追記する。
※狛江市民グランドの発足日について(2014年3月25日追記)
狛江市役所・教育部社会教育課担当者様より「“狛江市民グランド”の正式発足日は昭和50(1975)年4月1日」との情報をいただいた。つまり時期的に『マッハバロン』製作終了(クランクアップ1975年1月15日)までは、“日本現代企画 狛江スタジオ”に隣接したグランドは“狛江市民グランド”ではなく中学校の敷地であったことが判明した。
狛江スタジオ跡の向かいにある市民グランド辺りから見た、真理の住むHマンション(1972年完成)。マンションの各戸ベランダ部分に付いている“スチール製曲線デコレーション”は上品で美しい。
“狛江スタジオ”についてさらに詳しくお知りになりたい方は、Qちゃん様が運営・管理される「光跡」をご覧ください(リンク承認済)。
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