僭越ながら『マッハバロン』40周年ということで、(40年が)短かったのか長かったのかよく分かりませんですけども、今日久しぶりに殺陣師の車(邦秀)ちゃんと会って、また主題歌を唄ってくださったすぎうら(よしひろ)さんと初めてお会いしました。
これは不思議ですよねぇ〜。監督をやっていて、主題歌のすぎうらさんと初めてお会いして…それも40年目にして今日初めてお会いするなんて。(すぎうらさんと)熱く握手をしました!
そういったことでは、(『マッハバロン』は)随分昔の作品だという気もしますけども、ともあれ、今日に至るまでファンの皆さんがいて(応援して)くれたからこそ、『レッドバロン』『マッハバロン』『ガンバロン』といったバロンシリーズが結晶し、今なお輝くことが出来るんだと思います。
では皆さん、ご起立いただいて…。皆さんのご健勝と、今日は石田(信之)さんも見えていますが、彼の一日も早い復帰を願って乾杯したいと思います。乾杯!!
私、『マッハバロン』の主題歌を唄いましたけれども、その年(1974年)に一度だけ当時の“多摩川園”で(お客さまの前で)唄いました。いま(鈴木清)監督が「40年」と仰いましたけども、ひとくちに40年と言っても、0歳児が40歳になる(途轍もなく永い)歳月です。
40年ぶり…これが最後になるかもしれませんが、今日皆さんの前で唄わせていただきますので、よろしくお願いします!(一同拍手)
◎ゲスト(順不同)
下塚 誠 さん(『マッハバロン』嵐田陽役)
加藤 寿 さん(『レッドバロン』坂井哲也役、『マッハバロン』白坂譲司役)
石田信之 さん(『レッドバロン』紅健一郎博士役)
車 邦秀 さん(鉄面党ロボット スーツアクター、殺陣師)
鈴木 清 さん(バロンシリーズ メイン監督)
<ロケ地ウォーク回想、バロンシリーズ監督との想い出>
司会 さて、本日昼間、『レッドバロン』第35話「恐怖の吸血ヴィールス」のロケ地“横浜市青葉区寺家町”へ、加藤(寿)さんや有志の皆さんとで行って参りました。鈴木監督がお席にお戻りになり、トークショーが開始されるまで、加藤さんに本日のロケ地ウォークのご感想をいただきたいと思います。それでは加藤さん、よろしくお願いします。
加藤 こんばんは! 加藤(寿)です。今日41年ぶりに『レッドバロン』(第35話)のロケ地へ行ってきました。一番印象深かったのは、番組の映像そのままの景色が、そこだけエアポケットのように、ほぼそのままで残っていたことです。周りは横浜市で都会なのに、そこ(寺家町)だけ数十年前のまま(の景色で)残っていたことに、まずビックリしました。
運営スタッフさんから「前もって第35話を観ておいてくださいね」と言われて(当該映像を実家で)観てきたんですが、それでも(当時のことを)思い出せなくて…(苦笑)。それが現地へ行ってみると、「あ、この辺で某俳優(誠直也)さんの奥様になられた女優(早川絵美)さんが飛び出してきたのを起こしたな〜」とか、「あの当時、(熊野)神社の急な石段を3段跳びで、よく頂上まで上れたな〜」とか、思い出せました。試しに2段跳びで上ってみたら、少しだけ上れましたけどね。
(寺家町が昔の美しい田園の景観を残しているのは)横浜市の政策だったようですが、きちんと自然公園のように保存されていたのを観て、感動しました。…感想は以上です! ありがとうございました(笑)。
(一同拍手。鈴木清監督が戻られ、ゲスト5氏勢ぞろい)
司会 皆さま、本日は“音速男爵オフ会”にお越し下さり、誠にありがとうございます。『スーパーロボット マッハバロン』生誕40周年記念ということで、その当時主役を務められました下塚誠さんのお店“レモンタイム”で、イベントを開催させていただけたことを光栄に思います。
昨年11月に調布市内で、バロンシリーズ関係者にお集まりいただき収録した“バロン座談会”が、(各所から)もの凄い反響をいただきました。今回はその時にお訊きできなかったことや、昨年諸事情から欠席された車(邦秀)さんにお訊きする予定だったことを訊いていきたいと思います。
はいっ! はいっ!!
鈴木 (昔のことは)憶えてないよ、車ちゃんは。
(一同爆笑)
加藤 具体的に何か訊いてあげれば、(車氏は)答えられると思いますよ。
司会 それではまず、『マッハバロン』のスタッフとの思い出について伺っていきます。鈴木清監督をはじめ沢山の方が『マッハバロン』を撮っていらっしゃるんですが、山本正孝さんと、元俳優だった鈴木俊継さんと…
石田 あと、『ミラーマン』も撮った高野(宏一)さん。亡くなってしまったけどね。(鈴木)俊継さんは一緒には呑んだことないけど、酒癖が悪くてね、一杯呑んだだけで人が変わるっていう話。
(一同爆笑)
司会 高野監督がウルトラシリーズについて語っている証言は色々とありますが、“バロンシリーズ”については殆ど語られないまま、亡くなられた感が強いです。高野監督と現場でご一緒した皆さんから、ぜひ高野監督との思い出についてお聴かせいただきたいと思います。下塚さんからお願いします。
下塚 『マッハバロン』の監督といえば、高野さんより、今日いらしている鈴木清さんが第1話を撮っていらっしゃる関係で、鈴木清さんの印象が一番強いです。二番目が俊継さん。あと、最初の頃に助監督をしていた浜(しんぎ)さんという監督がいらっしゃいました。
鈴木 彼(浜氏)は終盤に監督になったんだよね。“ご褒美”というか、僕の持ち分の話(台本)を彼に提供したんです。
下塚 僕、それ(鈴木氏の持ち分提供の件)は初めて知りました!
鈴木 彼(浜氏)はもう亡くなりましたよ。ウルトラシリーズでもそうでしたが、助監督で頑張ってきた人たちに、いずれ“ご褒美”で監督として撮らせてあげるんです。そういうことをきっかけに“大監督”として成長していく場合もあるんで。もちろんご褒美だけではなくて、彼らにチャンスを与えることで映像界そのものが発展していく側面も考えてのことです。
何のシリーズでもそうですが、永くやっていると、必ず“想い”というものが出てくるんですよ。「俺だったら、こう撮りたい!」と誰もが思うわけ。だけどもそれが“勘違い”だったりするんだ(苦笑)。他人の創ったものを批判するのは簡単だけども、「じゃあ、お前、撮ってみろよ」と言うと、なかなか巧くいかない人もいれば、それを容易くやり遂げてしまう人もいる。それがセンス・才能の違い。でも(そもそも)チャンスがなければ、それすらも出来ない。
だから「(監督として撮る)チャンスは(かつて)僕らも貰ったんだもの、(若手の)皆にも(撮る)チャンスをあげようよ!」という思いで、彼(浜氏)らに接しました。でも(浜氏は)亡くなってしまったんでね、残念です…。
司会 加藤さん、いかがですか?
加藤 うん、それぞれの監督さんとの思い出は、色々とあるんですけども…。『レッドバロン』か『マッハバロン』かは忘れてしまいましたが、大人向けの番組を撮ってきた方々…たとえば福原博さんや外山徹さんがしていた演出を、当時まだ若かった私なんかが見てもよく理解できなかったんです(苦笑)。ところが映像になってみると「ああ、こういう画(え)が出来るんだ!」とか、「こんなカット割りにすると、こんな作品になるんだ!」とか、監督の持つ個性によって、作品が大きく変わることが分かりましたね。
私を中心に撮ってくれた高野さんのある回(『レッドバロン』第12話「この一撃に命をかけろ」)で高野さんは、「ハリウッド映画のセンスを取り入れたい 」ということを仰っていました。「(高野さんの画は)なかなか面白いなぁ」…と思いながら撮影したことを思い出しました。
鈴木 高野さんと僕はすごく永い付き合いで、学生アルバイトの時、まだ円谷特技研究所の時代。僕が大学を卒業するのが東京オリンピックの年(1964年)で、その前年に石原プロの映画「太平洋ひとりぼっち」という作品を手伝うことになったんです。石原プロ第1回映画作品で、主役の裕次郎さんの乗るマーメイド号が荒波に翻弄されるという画(え)を撮るために、千葉の海に1カ月ほどいたのかな?
高野さんとはそれ以来の付き合いで、お互い永く特撮をやっていると、どうしても段々と本編をやりたくなってくるんですね。そういう意味では、高野さんも僕も『レッドバロン』や『マッハバロン』で、(「本編を撮りたい!」という)想いをぶつけたところがあります。だからライバル意識剥き出しで、高野さんは「俺は先輩だ!」と言うし、僕は「後輩だけど負けないぞ!」と言って、切磋琢磨しながら(バロンシリーズを)撮ったという思い出があります。
高野さんも晩年、まだ円谷プロで色々とやりたいことがあったと思いますが、夢半ばで亡くなってしまいましたが、とにかく高野さんとは色々な思い出があります。『ウルトラマンG(グレート)』と云う作品で、オーストラリアに長期滞在した想い出は忘れられません。
(一同拍手)
石田 高野さんは『ミラーマン』の特撮もやっていましたよね。あと(鈴木)俊継さんは…ノーマルな監督さんで、あんまり好きじゃなかったです。
(一同爆笑)
石田 すごく大人しい監督で、(僕は鈴木)俊継さんから何も言われなかった。
高野さんはすごく温厚な方で、特撮は東宝のスタジオでセットを組んで、美セン(東宝ビルド)で本編を撮っていたんだけど、高野さんは美センへよく来て、「よぅ! 頑張っているか?」と声をかけてくれました。去年(の“バロン座談会”席上)、高野さんが亡くなったと聞いて、ビックリしました。
鈴木 (死因は)肺気腫でね。
石田 あぁ…、高野さん、よくタバコを吸っていましたからね〜。
鈴木 高野さんには「もうタバコは止めたら!」とよく言ったんだけどね、止めないのよ。(高野氏は)「俺は別に死ぬのは怖くない!」って、言ってね。その後、病気で(タバコを)止めざるを得なくなるんだけど、それなら最初から止めていればよかったと思うよね。
石田 それも運命でしょうね。
司会 当時、石田さんがゲスト出演された『レッドバロン』第3・4話も、高野監督回でした。
石田 え、ウソ!? 僕が出た回は、全部鈴木(清)さんの回でしょう?
鈴木 僕の回(『レッドバロン』第1・2話)の次が、高野さんの回(第3・4話)だったんだよ。でも、撮影と放送の順番が違う場合があるからね。
加藤 そうです、たまに違う場合がありますね。
石田 (高野さんの撮った『レッドバロン』は)全然憶えてない。鈴木(清)さんが(第1〜4話を)撮ったと思ってました。どこか遠いロケ地で撮影した時に、僕が朝寝坊しちゃって遅れたら(撮影現場で)鈴木(清)さんに、すごく嫌な顔をされちゃってね(笑)!
鈴木 ま〜た、その話を始めるの(苦笑)?
(一同爆笑)
下塚 石田さん、去年の(バロン)座談会でも、それ言っていたよね(笑)。
石田 とにかく鈴木さん、“すっごく嫌な顔”するの(笑)!
鈴木 本当は僕、いい人なのよ(笑)。
<バロン関係者から見た、萬屋錦之介氏と倉田保昭氏>
司会 車(邦秀)さんは特撮(パート)のアクションが主でしたね。
僕は特撮もやっていましたけども、ローテーションの合間に本編の現場へ駆けつけました。『レッドバロン』の時は、特撮と本編を往ったり来たりしていましたが、『マッハバロン』の時はほとんど(本編の)現場に出ていました。飛んだり跳ねたりすることが好きでしたし、現場の方が自由自在にそれをすることが出来ましたからね。特撮はロボット役で(自分の思う通りに)動けませんから。たとえば“車椅子”に乗ったりとか(1972年『アイアンキング』第8話・シルバーライダー役/1973年『レッドバロン』第21話・エスカルゴス役)。その場合は手だけしか動かせないなんてこともありました。
司会 それはこういうロボットでしょうか?(講談社刊「巨大ヒーロー大全集」をゲスト諸氏に披露)
(『アイアンキング』第8話・シルバーライダーの一葉を見ながら)…そう、これこれ!
鈴木 (車椅子に乗っているから)それで“車ちゃん”って、いうんだ!
(一同爆笑)
加藤 監督、素晴らしいギャグです(笑)!
小さく見えますけど(スーツアクターは)僕です。とにかく色んなロボットアクターを演りました。
鈴木 車ちゃんとは、(初期の)“ウルトラ”の時代からの付き合いだよね?
いえ、『シルバー仮面』からです。その後『アイアンキング』、バロンシリーズと続きます。
司会 あと、『トリプルファイター』(オレンジファイター役)もありましたね。
はいはい、ありました。
鈴木 さっき運営スタッフの方から『子連れ狼』のDVDを貰ったんだけども、僕はバロンシリーズに入る前に、萬屋錦之介さんの時代劇のキャメラマンを1〜2話やっていたんです。(『子連れ狼』の)台本を渡されたとき、“胴太貫(どうたぬき)※”という言葉が出てきて、「車ちゃん、何だかよく分かんないだけどさ、“胴太貫(どうたぬき)”って何?」って、電話で車ちゃんに訊いた憶えがあるのよ。憶えてる?
※編者註:当該の真剣の正確な表記は、刀工の本拠地・九州肥後国内の同地名に起因する“同田貫”。鈴木清氏の「錦之介さんには“胴太貫”の方が相応しいと思います」とのご意見を尊重、今回は敢えて“胴太貫”とした。
はいはい、憶えてます。
鈴木 それで(車氏から意味を説明してもらい)「ああ〜、そうなんだ」と。“胴太貫(どうたぬき)”って、野武士が持つ、刃が太くて簡単には折れないという刀のことをいうんだそうですよ。
下塚 僕は(『マッハバロン』の)3年後、(『子連れ狼』とは別の時代劇で)萬屋さんに真剣を持たされましたから。
(一同笑い)
下塚 萬屋さんに「下塚、お前、立ち廻りが軽いぞ。お前、これ(真剣)を抜いてみろ!」と言われて(真剣を)抜いたら、「おい! これは千二百万円だ。簡単に抜くな!」と怒られました。
(一同爆笑)
下塚 それは『破れ奉行』(1977年4月〜12月/テレビ朝日系/制作:中村プロダクション/出演:萬屋錦之介・大谷直子・若林豪ほか)です。
鈴木 余談ですけどね、萬屋さんはアップの時に“本身(真剣)”を使うんですよ。(撮っている方は)とっても怖いんだけど、萬屋さんは重い“本身(真剣)”を、いとも簡単に振り回すんです。そして“殺陣”がスゴい!
下塚 半端じゃないです。
鈴木 そうそう、半端じゃない。(斬りながら進むシーンの)リハーサルの時は、「(まるで日舞を踊るように)こうこう、こうだね」…という(柔らかくてスローな)感じ。一度僕が、格子戸越しに横移動のキャメラポジションをとっていたら、萬屋さんに「そんな所から覗いてんの?」と言われて。「(リハーサルを観るかぎり格子に)ダブるだろうなぁ」と思ってたら、本番、バババババ!…と(猛スピードで)斬り抜けて、最後にバチッ!と格子の真ん中(の最良アングル)に収まったの。あの殺陣はスゴイ! (萬屋氏と)一緒に演った下塚君はそれがよく分かったと思う。
下塚 うんうん、凄かったです。萬屋さんも「こんな(リハーサルのような)動きでは、実際に人を斬れないよ」と言ってました。
鈴木 (萬屋氏は)伊達に“あの時代”を生きていないよね。
下塚 さっきも話しましたけど、萬屋さんに「おい! これ(真剣)は千二百万円だ。簡単に抜くな!」と言われて、「抜けねぇよ!」と(萬屋氏にツッコミを入れようと)思いました(笑)。
(一同爆笑)
下塚 あと、(萬屋さんから)「実際の刀(真剣)はそんなに軽いもんじゃないんだ。下塚、そんな抜き方だと自分の脚を斬っちまうぞ!」と言われました。
鈴木 (一度抜いたら)勢いよく一気にバッサリ斬っちゃう。“勝新(勝新太郎)さんの息子さんの事故”もそうだったでしょう。あれも(真剣で殺陣の相手を)バッサリやっちゃった(事故です)。
編者註:1988年12月26日、勝新太郎監督による映画「座頭市」の撮影中、G氏は立ち回りで、斬られ役の俳優に重傷を負わせる(その後俳優は死亡)。G氏は模擬刀が真剣にすり替わっていたことを裁判で主張し、それが認められた。
下塚 本身(真剣)でしたからね。事故で亡くなった役者は僕の友達なんです。
うん、僕も(その方のことは)よく知ってます。
鈴木 あれは辛い事故だっただろうね。
萬屋さんは『長崎犯科帳』(1975年4月〜9月/日本テレビ系/出演:萬屋錦之介・田中邦衛・火野正平ほか)の前後に、居合いを習いに行ってました。(以下ゼスチャーを加えながら)刀身の柄に被われている部分に“茎(なかご)”ってあるんですけども、そこの長さによって、刀の握り方が変わってくるんです。萬屋さんの刀はおそらく“茎(なかご)”が短かったので、(劇中見られるような)ああいう握り方をして、(袈裟懸けに)バッサリ斬っていたんだと思います。
鈴木 あれ(刀の握り方)って、ゴルフのグリップと同じだね。皆さんの中でゴルフをやっている方がいれば、分かると思いますが。
(加藤、下塚、石田の3氏、笑いながら頷く)
ゴルフも(刀を使った)殺陣も同じで、ブレを無くす握り方をしてあげなきゃならない。だから(刀の場合、ブレを無くすため)“茎(なかご)”の部分に指2本分の隙間を空けて握るんです。それ(握り方)が狂うと、ものが斬れない。狙いを外すことになってしまうんです。
鈴木 なるほどね〜。
司会 車さんにお訊きしたいのですが、『マッハバロン』の撮影の時には、どんなポジションだったのでしょうか?
色々なことをやり過ぎて、どれがどれだか(どの作品で何をしていたか)全部は憶えてませんが、若い頃にやった仕事で、(悪役として)加藤さんや下塚さんに絡んでいって、色々なやられ方をしたことは憶えてます。楽しかったです! その頃が一番楽しかったです。
鈴木 車ちゃん、そこは「『ガンバロン』の時が一番楽しかった」って、答えなきゃ(笑)!
司会 『ガンバロン』では、殺陣師とスーツアクターを兼任していらしたと思いますが。
そうです。『ガンバロン』のときは殺陣師で、皆にポーズをつけ、また殺陣をつけながら、自分もアクターとして演らなきゃならなかったので、いやぁ〜、本当に大変でした(笑)。
鈴木 (車氏は現場で)“小さなスーパーマン”だったからね。
加藤 車さんはバロンの現場で、高倉(英二)さんが都合で来られない時には、部分的に殺陣をつけていましたからね。
そうです、やらせていただきましたね。『闘え!ドラゴン』(1974年7月〜12月/東京12チャンネル/出演:倉田保昭・赤塚真人・三谷昇ほか)の殺陣もやりました。倉田さんの吹き替えは僕がやってました。
司会 (『闘え!ドラゴン』の)制作は宣弘社さんなんですよね。
宣弘社です。田村(正蔵)さんや福原(博)さんなどが監督をやってました。僕達は現場第一で(日本で最初にカンフーの殺陣をテレビドラマで行ったので)、カンフーの始まりは僕達(“若駒”)なんですよ。
(一同拍手)
倉田さんに色々教わってプロテクター(防具)も入れて、本当に胸に蹴りを入れられました。倉田さんは「(これは)ブルース・リーに貰ったプロテクターだ」って言って、それを貸してくださいました。
下塚 僕、(『Gメン'75』第319話「香港カラテ対北京原人」、第320話「香港カラテ対北京原人パート2」の)撮影で、(倉田氏と旧友の俳優)ヤン・スエと親しくなったんです。
あぁ、そうですか。現場で役者さんに絡んで「本当に(主役が)上手く見えるような見せ方をすること」と、またカメラアングルを常に考えて「“受けのアクション”を見せること」が現場での一番の鉄則ですね。
(一同拍手)
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