今回『スーパーロボット マッハバロン』(1974年)生誕40周年を記念して開催された“音速男爵オフ会”の会場は、東京都町田市にある「レモンタイム」である。
ここは本作の主演俳優・
下塚誠氏がマスターを務める“洋風居酒屋”だ。
ちょうど10年前に、同所で『マッハバロン』30周年のアニバーサリーオフ会を開催したが、筆者はそのとき以来の来訪だ。
当時は前にテナントで入っていた写真館の看板が残っていたが、7年ほど前に外装を塗り替え、今は「レモンタイム」の名に相応しいアイボリーホワイト(黄色っぽい白。お店に着いたのが夕方だったので日中はそのときと違う印象を抱くかもしれない)のカラーに彩られ、街中でもその鮮やかさを際立てる。
既に開店から10年が経過し、レモンタイムがすっかり地元に馴染んだ地元の名物に成長した感を受けた。

会場入りしたゲスト諸氏による参加者プレゼントへのサイン書きや、主題歌をはじめとするミニライブの主役・
すぎうらよしひろ氏の“マイクテスト”といった諸準備が終了後、予定より遅れたものの『スーパーロボット マッハバロン』メイン監督の鈴木清氏による“乾杯のご発声”により、アニバーサリーイベントは幕を開けた。
そのご発声後、トップを飾るのは本日のメインプログラムの一つである、
“歌手・すぎうらよしひろ氏ミニライブ”である。 
OP主題歌「マッハバロン」、EDテーマ「眠れマッハバロン」、そして後番組であるアニメ
『ガンバの冒険』(1975年)のEDテーマ「冒険者たちのバラード」、最後にすぎうら氏が所属していたバンド“NORA(ノラ)”の「懐かしのメロディー」の計4曲を披露してくれた。
当日すぎうら氏は「懐かしのメロディー」についてはギターを持ち込み、弾き語りによる歌唱を考えていたが、店内のスペースと大勢の参加者との兼ね合いで、店内のカラオケ機器による伴奏となったものの、本家本元の歌手の生での歌唱に勝るものはなく、参加者一同を魅了した。
特に監督・鈴木清氏は生で初めて聴く主題歌にいたく感動、思わず愛用のスマホで歌唱中のすぎうら氏の勇姿を“撮影”していた。この辺り、流石円谷プロのカメラマン出身であるなぁと経歴を感じさせられる。
実際、鈴木氏が『マッハバロン』OP・EDテーマのみならず、『ガンバの冒険』EDテーマにも感動していたことも忘れられない。


続いて、当日のゲスト諸氏による
“バロンシリーズ スタッフ・キャスト諸氏ミニトーク”である。
今回の趣旨は、前年の“バロン座談会”で伺えなかったことをお訊きするのが本題となる。とはいえ、時間的制限とその場のノリで予定が大幅に変わるのが世の常。
しかし、そんな脱線の中から思わぬお宝話が漏れることも多々有るので、司会者の腕前や技量より相手からお宝話をうまく導くことに腐心する。
更に、当初は昨年の“バロン座談会”に出席の予定であったが、お仕事の都合で出席できなかった
車邦秀氏がいらしているので、思わぬ秘話を伺えればといった狙いがあった。

まずトークは、作品のかじ取り役である監督諸氏の話題から始まった。
出席している鈴木清氏以外の
高野宏一氏山本正孝氏鈴木俊継氏は今や故人であるが、チーフ助監督で、本作でデビューを飾った浜しんぎ氏が物故されたことが明らかになる。
下塚氏は、チーフ助監督・浜しんぎ氏の監督デビューの話題を出し、そこに鈴木氏が「僕は自分の担当持分を浜君に提供しました。デビューはご褒美だけでなく、浜君に映像界に出るきっかけをつかんでほしいという想いがあったからです」と披露。
加藤寿氏は、前番組
『スーパーロボット レッドバロン』(1973年)時代の監督である外山徹氏福原博氏の作品づくりの個性を語り、「両作で活躍の高野宏一さんはロマンチストでしたね」と回想。
鈴木氏は、円谷プロ出身で先輩である高野氏の思い出を語り、同社第一作目であり、石原プロ製作第一作目
『太平洋ひとりぼっち』(1963年)での特撮シーンや千葉ロケの秘話を公開。
以後の長い付き合いによる思い出の中、「高野さんとは“バロンシリーズ”ではしのぎあうように、切磋琢磨して作品を作り上げました」と語った。
また鈴木俊継監督のご夫人・
宍倉徳子女史(スクリプター→プロデューサー。1978年『スターウルフ』、1989年『丹波哲郎の大霊界2 死んだらおどろいた!!』、1997年『D坂の殺人事件』等)が自分の妻だと勘違いされたこともあり、同姓スタッフが作品内に存在するケースのハプニングを物語っていた。
石田信之氏は、主演作『ミラーマン』(1971年)での高野、鈴木俊継両氏の思い出を語る。「特撮監督の高野さんは温厚で、特撮は東宝のスタジオで、本編は美セン(後の東宝ビルド)で撮影の中、いつも美センに顔を出していました」、「鈴木俊継さんはノーマルな監督で、すごい大人しい方でした」と想いを寄せていた。
車邦秀氏は、「『レッドバロン』は本編と特撮を行き来しました」と語り、「『マッハバロン』ではずっと本編でした」と体制の変化を思い起こし、その中で「車椅子に乗って撮影したこともありました」(1972年
『アイアンキング』第8話・シルバーライダー役/1973年『レッドバロン』第21話・エスカルゴス役)と回想。それに対し鈴木氏は「それで"車ちゃん”て言うんだ!」とリアクション、場内一同の爆笑を巻き起こした。

『レッドバロン』の前に
『子連れ狼』(1973年)第1〜2話のカメラマンを担当した鈴木氏は、同作に出演した車氏とその頃の思い出を語り、主役の萬屋錦之介氏が本番で真剣を使う秘話を公開。そこから下塚氏が「錦之介さんに『その刀抜け、1200万円だ!』と言われて恐縮しました」と思い出し、車氏は「錦之介さんは居合いを習っていました」と語り、そこからボディアクションを交え、昭和のテレビ時代劇ファン刮目のお宝トークが展開し、いつしか『マッハバロン』の話題からそれてしまった。
一応はバロンシリーズの話題がメインなので、本来の話題に戻そうとすると車氏は「本当に色んなことをやりすぎてわからない」と返答、でも「一番楽しかったです」との良き思い出に満ちた回答を頂いた。そして
『小さなスーパーマン ガンバロン』(1977年)では、ヒーローのスーツアクター兼殺陣師であったことに言及、そこで加藤寿氏が「車さんは既に『レッドバロン』のときから高倉(英二)さんのいないときに殺陣をつけていました」と秘話を公開(1974年『闘え!ドラゴン』で車氏が倉田保昭氏のスタントも担当したエピソード等『〜ドラゴン』秘話が続出)、タイトルロールだけではわからない人員配備の真実を物語る。

次はヒーロー番組の定番行事・アトラクション関連の話題を進め、主役の下塚氏は、撮影終了後(放映はまだ終わっていない時期)、全国縦断サイン会ツアーに出演、当時で一回3万円のギャラの良さに驚愕、また東京と地方での子どもたちのリアクションの違いを語った。またショーの出演者は、主役の下塚氏のみで、加藤氏や力石考氏、団時朗氏といった共演者は全く出演しなかったとのことである。
『ミラーマン』の主人公だった石田氏は、「撮影が終わるといつもどこかへ連れて行かれました」と回想、着ぐるみ(ヒーローや怪獣)はおらず、石田氏のみでサイン会に来場したとのことである。そこでサイン1万枚(当時のデパートのイベント担当者の弁)という話が出て、「手が動かなくなるまで書きました」と告白。こうしたヒーロー俳優のサイン会で具体的な枚数で、万単位という数字を聞いたことがないだけに、「僕が書いた枚数が最高記録じゃないですか?」といったものになった。

そうして時間も押し迫り、他に伺いたいことも多々ある中、鈴木氏に
『少年探偵団(BD7)』(1975年)での“監督→プロデューサー”への転身についての秘話を訊くことになる。
氏自身、自分の夢がプロデューサーであったことと、実はピンチヒッターでの登板による秘話を明かしてくれた。
「今までにないことを俺がやろう!」といった趣旨をスローガンに、「貧しくともクオリティの高いものを」というコンセプトを目指して尽力、「視聴率も過去の『少年探偵団』(1960年)より高かったです」と回想、更に当時の子役たちへの想いを語っていた。

最後に
「ファンへのメッセージ」を伺うことでフィナーレとなるが、下塚氏は「自分の店で開催することは、スタッフでもありゲストでもあるややこしい立場ですが」と前置きしながら、「今でも多くの人に『マッハバロン』が代表作であると認識されています」と語り、加藤氏は「人には共有できる価値観があるのでしょう。ファン・スタッフ・キャストも含めて時代を共有したチームみたいなものだと痛感しました」と、周囲に対する感謝の意を表していた。
今回ようやくイベント参加が叶った
車氏は、「僕たちが若かりし頃に、体が動けるバリバリの時代にやってきた作品が愛されていることは嬉しいです」と語り、あの昭和の大ヒットバラエティ『8時だョ!全員集合』(1969年)に始まり、これまで子どもを喜ばせるために色んな作品に接してきたことを明かした。
石田氏は「どうぞ今後ともよろしくお願いします」とシンプルにまとめ、鈴木清氏は“横浜アンパンマンミュージアム”でスタッフとして活躍している近況を語り、「子どもたちの夢を育んであげることは僕らの務めです」と発言。更に我々に対して「昔の作品を応援するだけでなく、新しい作品に対しても、子どもたちを勇気付けるようなことをやっていただきたい」と締めくくった。
トークは10分押し、トークショー閉会の挨拶を終えた途端、参加者の骨接ぎ鉄氏から石田氏へ『ミラーマン』の裏番組
『シルバー仮面』に関する質問が入るが、石田氏は懇切丁寧な回答を行ってくれた。同時に、あのファッショナブルなカメラマン・鏡京太郎のイメージの裏には、演者にとって裏腹な事情(撮影終了後、毎度、京太郎用の私服衣装を買いに行かされる)が存在したことが明らかになる。

自分の予定したような進行にはならなかったが、予想外のお宝話を披露してもらい、進行の不手際(?)を見事にカバーする結果になったことを、ゲスト諸氏はもちろん、参加者の皆様のご厚情に感謝するかぎりである。
最後にここで明言しておきたいが、筆者一人ではイベント全体の内容は把握できず、自分自身が見聞きした部分で、記憶している箇所のみの言及にしかならない。そこは当日のイベント参加者の諸氏が、当人のみが知っているパートを面白く個性的に綴ってくれると思うので、そこに期待しよう。
久々のオフ会形式の催し、普段より運営スタッフの数は減ったものの、少ない人員でいつも以上にがんばれた事による充実感はあった。
ここで思い出したのは、“バロン座談会”での鈴木清監督によるコメントで、「シリーズをやっていくと、ひとつずつ“知恵と経験”が身についていきます」と仰った時のこと。
オフ会開催のブランクがあっても、運営スタッフ人数が減ってもこなせたのは、その“知恵と経験”、そして参加者の皆様に支えられていたことへの感謝の意を常に感じていたからであろう。
トークショー
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